フランク王国Ⅱ

ダゴベルトⅡ世

Wikipediaより

ダゴベルト(Dagobert, Dagoberto)は、古フランク語起源の男性名。

ページが無いんです。で

 

ダコベルト二世

レンヌ=ル=シャトーの謎より

 

289・290・291・292ページ

「511年にクロヴィスが死去〜、ダコベルト二世は、六五一年にアウストラシア王国の後継者として生まれた。六五六年に父が亡くなると、彼が王位に就くのを妨げようとする激しい挑戦に出逢った。〜ダコベルト二世はアイルランドに永久追放された。彼はダブリンにほど近いスレーンのアイルランド修道院で成人し、〜アイルランドにいた六六六年、ダコベルトはケルト族の王女マチルドと結婚した。〜彼はアイルランドからイギリスへと移り、ノーサンブリア王国のヨークに定住先を構えた。〜670年ダゴベルトのケルト人の妻マチルドは、三番目の娘を産んで死んでしまった。〜六七一年、ダゴベルトは二度目の結婚をした。〜新しい妻は、ラゼ伯の娘で西ゴート族の王の姪ジゼル・ド・ラゼであった。〜これによってメロヴィング家の血統は西ゴート族の血筋と結ばれ、ピレネー山脈からアルデンヌまで広がる、現代フランスのほとんどを統一する帝国が誕生する種が蒔かれたことになる。〜ジゼルと結婚したとき、〜この祝宴はレーディのジゼル公の宮廷かレンヌ=ル=シャトーで催されたらしい。

六七六年、息子シギベルト四世が誕生した。〜シギベルトが生まれたとき、ダコベルトはようやく王位に就いた。

いったん王位に就くと〜、彼はクロヴィスの後継者にふさわしいふるまいを示した。〜自分の権威を公に主張して〜、アウストラシア全体に蔓延していた無政府状態を抑えて秩序を回復した。王位に挑戦する軍事力や経済力を持つ数多くの反抗的な貴族達を支配下におき、強力な支配体制を固めた。

 

続きます。