つづき
ダコベルト二世
レンヌ=ル=シャトーの謎
293ページ
「王位に就いて三年を経た六七九年には、ダコベルトは世俗的にも教会側にもかなりの数の強敵をつくっていた。〜中央集権に反抗する自治を禁止したので、復讐心を抱いた貴族たちから敵意をもたれた。勢力を拡張しようとするローマ教会の企みを妨害したので、教会側からも反感を買っていた。中央集権体制を強化したため、近隣のフランク人王侯からも妬みと警戒の念で見られていた。これらの支配者たちは同盟を組み、ダコベルトの領土内に密使を潜入させた。このような人物に、ダコベルト王の宮宰である中ピピン肥満王がいた。そして中ピピン肥満王は、ダコベルトの政敵とひそかに共謀し、反逆や暗殺さえも辞さない覚悟であった。
〜、王(ダコベルト)は小川の脇の木の根元で横になって疲れを癒していた。彼が、眠っていると、彼が、名付け親になったひとりの下僕がこっそりと近づき、中ピピン肥満王の命令通りに彼の目を槍で突き刺した。それから暗殺者たちは、居城に残った王族を抹殺するためにストネイに戻った。〜ダコベルトとその一族による支配は、突然、暴力的な終焉を迎えたのはまちがいない。
中ピピン
「ピピン2世(ドイツ語:Pippin der Mittlere, 635/40年 - 714年12月16日)は、フランク王国の宮宰(在職:680年- 714年)。「中ピピン」とも呼ばれる。ピピン1世(大ピピン)の娘ベッガ(ドイツ語版)とその夫アンゼギゼル(メッス司教アルヌルフの子)の子[1]。」
メロヴィング朝のフランク王テウデリク3世は彼を排除しようとしたが失敗に終わり、以後ピピンはアウストラシアの事実上の統治者となり、ほかのフランク族たちへの影響力も維持し続けた[2]。またこのころにはアウストラシア宮宰職はピピンの一族による世襲化が定着した[3]。
670年頃、ピピンはモーゼルの地主の一族出身のプレクトルードと結婚し[4]、息子のドロゴ、グリモアルド2世をもうけた。687年、テルトリーの戦いでネウストリア軍に勝利し、以後、ピピンはアウストラシア、ネウストリア、ブルグントの宮宰を兼ね[5]、徐々にフランク族の宮廷内での権勢を増していった。700年頃にネウストリア宮宰の地位を次男グリモアルド2世に譲った[6]。714年にピピンが死去した時、二人の息子はすでに死去していたが、グリモアルド2世の子テウドアルドは自らが正統な後継者であるとしてプレクトルードの援助のもと[7]宮宰職を要求した。しかし側室アルパイダ(カルパイダ)との間に生まれた庶子のカール・マルテルは、軍事的才能と戦利品を気前よく配ったことによりアウストラシアの支持を得た。結果、プレクトルードの努力にも拘らず、カール・マルテルがアウストラシア宮宰およびフランク王国の事実上の支配者となった[6]。」
落合莞爾氏の著作より
落合・吉薗秘史[3]日本皇統が創たハプスブルグ大公家 296〜297ページより、
「役行者のもとで修験の行を鍛えた有間皇子は、莫大な國體黄金を携え、羅津からシルクロードを経て入欧した。〜「ベルギーからアルザスに入った有間皇子は、メロヴィング朝フランク王国のアウトストラシアの執権ピピン二世(中ピピン)と「同体」となったと聞くのは、二人が同人格を演じながら、ときどき入れ替わっていたのだろうか。」〜「有間皇子が携えていった莫大な「軽」ないし「羅津」のファンドを用いて、カロリング朝フランク王国が生まれたのである。」
四十七歳になってマーストリヒトの豪族の娘アルパイダとの間にカールマルテル(六八六〜七四一)を儲けたピピンⅡ世は、有間皇子と「同体」とされる。
347〜348ページ(一部加筆しています)
有間皇子は中大兄と、その腹心の蘇我の赤兄と通謀して偽装死して羅津に渡る。一方中大兄天智が蘇我の赤兄の娘常陸姫に産ませた山辺皇女を、天武の皇子大津皇子に嫁がせる。
軽皇子=孝徳(36代天皇) 596〜654→有間皇子 640〜658