「シーア派=血統」
「スンニ派=教義」
ていう事を、
いろいろ歴史や世界情勢に詳しい方に教え頂いた。
これは、キリスト教にも当てはまるのかなと思い
とメールで質問しました。
頂いた回答は、
「バチカンのキリスト教は、弟子が作ったもので、教義が基になります。
一神教で他の神を排するという理由で、他国の侵略に使っています。
ケルト神話〜ギリシャ神話は多神教〜ギリシャ正教≒イエズス会は、黒マリアのサングロリアル文書を重要視していますので、血統ということになります。
そして、キリスト教を排し、新しい神様にしようとしています。」
「バチカンのキリスト教は、弟子が作ったもので、」は、一昨年から読み始めたRALPH ELLISの本
「CLOPATORA TO CHRIST」に書かれており、
P 171より
「Christianity was the Church of Saul-Josephus (Josephus Flavius), rather than the Nazarene Church of Jesus and James: it was the Fifth Sect, rather than the Forth Sect of Judaism. *キリスト教は、イエスとジェームズのナザレ教会ではなく、サウル・ヨセフスの教会(ヨセフ・フラヴィウス)でした:それはユダヤ教の第4宗派ではなく、第5宗派でした。
で、第五宗派=教皇派の創始者サウル=パウロ。初代教皇はイエス・キリストの12使徒のひとり聖ペトロとされる。
第四宗派(イエスとジェームスが所属)は、「Zealots(熱心党)」と呼ばれ、ローマの属州となった猶太地方の独立を叫び反乱を起こした。
また、いろいろ教え下さる方が言う「新しい神」とは、ギリシャ神話の神「キュベレー」。
「キュベレー(古代ギリシア語: Κυβέλη / Kybélê、フランス語: Cybèle、英語: Cybele)は、アナトリア半島のプリュギア(フリギア)で崇拝され、古代ギリシア、古代ローマにも信仰が広がった大地母神である。名前は「知識の保護者」の意。」
「しばしば「髪の毛のある女性」が語源とされるが、それはプリュギア語ではなくギリシア語と考えた場合である。ギリシア神話に取り入れられる前のプリュギア語での呼び名はクババ (Kubaba) であり、より古い時代にアナトリア半島で使われたルウィ語(Luwian、楔形文字参照)起源であるとの説が、より広く受け入れられている。ローマ神話では マグナ・マーテル(Magna Mater 、「大いなる母」)に対応する。」
でクババをWikiで調べると、「ク・バウ(Ku-Bau、クババとも)は、古代メソポタミア、キシュ第3王朝の伝説的な女王である。」
「シュメール王名表によれば彼女はキシュ第3王朝のただ一人の王であり、100年間にわたって在位したという。ク・バウは娼婦から王妃へと成り上がり、遂にはキシュの実権を握り女王に即位したと伝えられる。古代メソポタミアにおいて実権を握ったと伝えられる女性はサム・ラマトやナキア(ザクトゥ)などがいるが、正式に王として即位した女性としては彼女が唯一の存在である。
しかし、実在の人物であるのかどうなのか、はっきりしたことは何もわかっていない。キシュ第4王朝のプズル・シンの母であるとされる。また、一説ではウル・ザババの母でもある。」
「ヘレニズム時代のもっとも熱狂的なキュベレーの信奉者は、みずからを聖なる儀式で完全去勢した男性たちで、この儀式の後、彼らは女性の衣装をまとい、社会的に女性とみなされた。同時代の注釈家であるカルリマコスは彼らを、女性名詞の Gallai (ガッライ、ギリシア語複数形)で呼んだが、古代ギリシアやローマの他の注釈家たちは、男性名詞の Gallos (ガッロス、ギリシア語単数形)や Galli (ガッリー、ラテン語複数形)で呼んだ。 女神の女性司祭は、人々を乱交的儀式に導き、儀式では荒々しい音楽、ドラムの響き、踊りに飲酒が伴った。女神は、性器切断された後、甦った息子であるアッティスをめぐる秘儀宗教と関連していた。一説では、三人のダクテュロスたちが女神の従者であった。女神の信奉者たちは、プリュギア語でクルバンテス、ギリシア語でコリュバンテスと呼ばれ、彼らは、一晩中続く、太鼓の乱打、剣と楯を打ち鳴らす野性的な音楽、踊りに歌に叫び声によって、女神への恍惚として乱交的な崇拝を示した。」
何か思いつきませんか?
もう一度ケルト、ギリシャ神話の神々を復活させるということがどうかはわかりませんが。
因みに落合莞爾氏によれば今の日本はマニ教国家。
塚本和人
2019/5/1 16:00
「消えた世界宗教」として知られるマニ教の創始者マニ(216年ごろ~276年ごろ)を描いた絵画が、奈良国立博物館(奈良市)で開催中の「国宝の殿堂 藤田美術館展」(朝日新聞社など主催)で公開されている。大阪の実業家が収集してきた美術品を公開するためにつくられた藤田美術館が所蔵するが、「地蔵菩薩(ぼさつ)像」とされ、長年収蔵庫に眠っていた。近年の研究でマニ像と確認された。13~14世紀の中国で描かれたとみられるが、いつ、どのようにして日本に伝わったのかなど多くの謎に包まれている。
奈良博などによれば、絹地に鮮やかな彩色が施され、縦約183センチ、横約68センチ。複数の段を持つ台座の上に置かれた蓮台(れんだい)に、特徴的な白い大衣を羽織って座り、右手は胸の前で手のひらを見せ、左手は腹の前で衣の裾を取っている。大衣には赤と金色の縁取りがあり、白色地に金泥で文様などが表現される。台座に複数の走る獅子や、楽器を演奏する女性の「楽人」などの表現もあるが、台座の形式や服装、文様などからは仏画の影響が色濃いとされる。
13~14世紀ごろの元~明代に中国沿海部の江南地方(現在の浙江省や福建省など)で描かれたとみられる。美術館の記録では「地蔵菩薩像」とされ、室町時代の作とみられる普賢菩薩像と文殊菩薩像と一緒の箱に収められていた。
1937年の美術誌「国華」に「宋画道像」としてモノクロ写真が掲載されたことがある。数年前、吉田豊・京都大学教授(言語学)らの研究グループが、両肩と両ひざのあたりに描かれた四角形の文様などがマニ教の絵画の特徴とみて、マニ像と指摘。このほど吉田さんらが奈良国立博物館で実物を見て、マニ像であることを確認した。吉田さんは「近年の研究で、日本に伝来した元~明の江南で制作された仏教絵画の中に、マニ教の絵画が複数存在していたことが分かってきた。マニ教絵画は海外でも限られ、大変貴重な作品だ」と話す。
森安孝夫・大阪大学名誉教授(中央アジア史)によれば、マニ教は、メソポタミアで生まれたイラン人のマニが3世紀に創始し、キリスト教に基づき、ゾロアスター教や仏教、ジャイナ教などの思想をとりいれた二元論的折衷宗教。ローマ帝国ではマニ教が先に入ったキリスト教を追い上げ、4~5世紀に最盛期を迎えた。マニ教の思想はキリスト教諸派の中で中世まで生き延び、欧州社会にも影響を与えた。
一方、シルクロード交易に活躍したソグド人などの仲介で東方に伝播(でんぱ)したマニ教は、8~9世紀に内陸アジアを支配したウイグル帝国の国教になり、唐帝国にマニ教寺院の建設を要請する。だが、9世紀の唐代に「会昌(かいしょう)の廃仏」と呼ばれる仏教弾圧が起こり、マニ教も弾圧される。一部が江南に逃れ流行したが、南宋時代には邪教として弾圧され秘密結社的に生き残った。森安さんは「宗教に寛容だったモンゴル人支配の元朝で、マニ教徒がマニ像などの制作をおおっぴらに仏画工房に注文したのだろう」と話す。」
令和元年五月一日 16時なのでそうなんでしょう。
血統と言えばサングリアル=イエスの血統。長くなるのでまた別の記事で。